no title
03/25 ,2012
いつもとは違う日だったから、いつもとは違う話でも、と思ったんだ。ただ、それは網で上物の和牛ハラミを焼きながらのタイミングじゃなくても良かったのかもしれない。ちょっとした議論が始まったおかげで、その皿の味で僕が覚えてるのは西洋ワサビの特異な味だけとなった。塩で味付けした己の野心だけを噛み締める結果に。運命とはいつだって皮肉なものである。でも、(牛さんには悪いけど)その気になればいつだって肉は食べられる。魂の対話は時を選ぶ。
状況に押され、猜疑心にかられては己の価値観を押し付けたくもなる。人間は弱い。心ある者は等しくそうだろう。でも、幾つもの理解の果てに強さを持てると信じたい。怖れに負けず、いつでも冷静な頭でありたいと心から願う。
>小さな感動を集める
3/18, 2012
カウンセラーのプログラムに従って、自分の過去−現在−未来で繋いだ連続的なアイデンティティを形成することを試みてみた。初めは過去の傷の重みに耐えながらも気合と根性で乗り切ってたんだけど、バイト中の事故を機にガタガタになって行った。まぁこれもセレンディピティの様なものだと考えて受け止めていくしか無いんだけど。
そんな経緯でまたしても心の深部に潜ることになったわけだけど、そこで目にしたのは、光の一切無い真っ暗な海岸と、そこにうずくまる自分自身の姿だった。前にも味わったことがあるけど、そんなイメージ。かける言葉もないくらい絶望に満ち溢れてた。ここに光が差し、青空が広がるのはいつになるか、今は全く見えない。僕にはまだまだその力はないし、環境もほとんど整わない。再度カウンセラーに相談し、これまでのメソッドが頓挫していることを伝えた。幼少期の、大雑把に言って「広島時代の自分」と、現在の「東京にいる自分」のアイデンティティは切り離さないと今後ともやっていけない、と判断したから。
さて、「己を知る」 という事にはリスクがつきもので、深く潜るほどに嫌なものも目にし、心や体に負荷がかかる。そんなわけで、少し辛い時期を経て、今だいぶ沈んだところから浮上してるところです。もう何から手をつければいいか分からない。とりあえず、しばらくは答えも見えそうもないことを考えるのは止めにして、小さな感動を集めて機動力を確保する計画に移行する。まずは折れた骨をさっさとつなごうか。もうつながってる?
どれを選ぶか。そこに思考活動はあるか。
02/19 ,2012
こちらのまったく意図しないところで、自分の言動に他者が傷つくことがある。自分に非があるときもあるが、相手の勝手な思考による感傷に巻き込まれることも。誰もがそういう体験を一度はしたことがあるかも知れない。正直、アスペルガー症候群の人(医師による診断か、知識を持った自己判断)と関わって、不条理な想いをしたことなんて何度もある…w 多くの人と関わっていけば、どうしたっていわれなき感情をぶつけられることは避けられない。それは、よほど鈍感でない限り、とても不快で厄介な事態だろう。その時に、憎しみを抱き反駁するか、相手の弱さを慈しみ受け入れるか、それとも関わるのを止めるか、その選択は各々の手に委ねられるべき事だ。ただ、一時の感情に流されると碌なことにならないという事だけは言及しておきたい。先々を意識した思考活動をおすすめする。
参拝について
2/9 ,2012
あるきっかけから、最近はほぼ毎日のように神社に参拝してる。無事で生きていられる事に感謝し、「強く在ります」という誓いを立てる。ほとんどそれだけ。
続けていくうちに感じたというか気づいたのは、 “神様に対して「何かを願う」ことを禁じ、「何かを誓う」ことに徹する” という精神的な原則を守っていくことは、とてもハードでストイックな行為である、ということ。心の中で “神様” という超自然的な存在に相対する時に、どうにも縋りたくなる自己が出てきて、「神さま、なんとかしておくんなせぇ…!」と言いたくなる衝動に駆られるわけだけど、それを感じつつも抑え、「自分の力で何とかやらせていただきます…!」と語るだけに留める。外部的な強大な力の存在を前に、それに頼ろうとせず自分の力によって人生に対処することを “誓う” 。その修練の目指すところは、「自己の内的な力を引き出す」と言うことにあるんじゃないか?と、そんなことを考えるに至った。自分を信じる気持ち、目的に向かっていく力を引き出すために、“神様”という存在を介し、結果的に己と対話する。“神様”に「生きる上でいかに困難なことがあっても負けません」と語りかけることで、ブレのない自我を作っていく。そこに参拝や崇拝の本義があると考えれば、とても奥深いし、続ける意義も見いだせる。実際、 “誓い” のあとはやっぱり気持ちもピリっと引き締まるもので、あながちオカルト的要素だけのものとも言えない。もし、周囲への愛情や生活への目的意識が自分の中に眠るものだとして、それらを引き出すツールとしてまたとない対象がすぐ近所にあるとすれば、活用しない手はない、と個人的には思う。
そういった視点で見ていくと、瞑想の目的なんかとも非常に共通するところがあって、面白いなと思う。結局のところ、どちらにしても、“幸せな人生を送る”という漠然とした目標に向かうためのメソッドであるわけだ。他の宗教の “誓い” の在り方とか探って比べていくのも面白そう。
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